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    衛藤晟一

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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    参議院議員 衛藤 晟一
    生年月日 1947年10月1日(60歳)
    出生地 大分県大分市
    出身校 大分大学
    学位・資格 経済学士
    前職
    所属委員会
    内閣役職
    世襲
    選出選挙区 比例
    当選回数 衆4回
    参1回
    所属党派 自由民主党(伊吹派)
    党役職
    会館部屋番号
    公式ウェブサイト

    衛藤 晟一えとう せいいち1947年10月1日- )は、政治家自由民主党所属の参議院議員(1期)。元衆議院議員(4期)。大分県大分市出身。大分県立大分上野丘高等学校卒。大分大学・経済学部卒。

    目次

    [編集] 政治家としての経歴・活動

    1973年、大分市議会議員に当選。1979年には大分県議会議員に当選し、障害者に対してただ単に援助を与えるのではなく、障害者の能力を引き出し、社会の中で自立できるようにしていく福祉に転換することを政策の主眼に据え、多くの実績を重ねる。また、同時に、家族の大切さを訴え、次の世代を担う子供たちに愛情と安らぎを与える家族と地域社会を護る政策を推進する。また、次世代を担う子供達のためにきちんとした教育を受けさせるための教育政策に取り組む。

    1986年7月、第38回衆議院議員総選挙に出馬するも僅差で落選。

    1990年2月、第39回衆議院議員総選挙に初当選。3期連続当選するが、2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では民主党釘宮磐に敗れ落選。

    2003年11月の第43回衆議院議員総選挙では小選挙区で落選するも重複立候補制度のおかげで復活当選を果たす。


    国政においても政策理念は変わらず、障害者自立支援、家族政策、教育政策、そして、その教育政策の延長としての歴史問題、拉致問題に精力的に取り組む。夫婦別姓法案には、「家族の解体を進める法案」だとして反対運動の最前線に立ち、与党による国会提出を複数回に渡って阻止した。

    被差別部落出身者や在日コリアン人権擁護を目的とした人権擁護法案に対しても、人権の名の下に言論の自由表現の自由を抑圧し、ひいては「人権ファシズム」を惹き起す恐れがあるとして、古賀誠自由民主党幹事長ら推進派に激しく対峙し、国会提出を阻止した。

    拉致問題にも、重大な人権侵害であるとともに日本の国の主権侵害であるとの信念のもとに精力的に取り組んでおり、2004年4月に結成された「拉致議連」にも結成と同時に加入する。拉致議連では事務局長を努め、関係省庁や家族会をはじめとした各種団体とのやりとりや、政府による対北朝鮮政策の策定の裏方として重要な役目を果たす。

    2004年に政治家の年金未納問題が起こるが、当時衆議院厚生労働委員長だった衛藤は11年11ヶ月の未納期間があったことが発覚した。

    教育問題にも熱心に取り組んだ。2004年10月、イギリスでの歴史教科書問題を時のサッチャー政権が教育基本法を改正することで「自虐偏向」を「正常化」したとされる事例を現地調査するための、与野党合同の「イギリス教育改革調査団」を設立。

    2005年4月に、PHP研究所から中西輝政監修、安倍晋三幹事長代理らと共著で『サッチャー改革に学ぶ教育正常化への道』を上梓する。この本は文部科学省による義務教育改革に多大な影響を与えた。ただし、現在のイギリスではサッチャー路線への批判も多く、1997年にはサッチャー改革の見直しを最重要政策に掲げたトニー・ブレアに政権を奪われるなどしているが、サッチャー以降の変化については取り上げられていない。

    教育問題の一環として、教科書問題にも熱心に取り組み、特に、従軍慰安婦に関しては、1997年に中学校の教科書に掲載されることからその存在の是非に疑問を抱き、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を結成し(同会・幹事長に就任)、存在肯定派と否定派の両派の有識者を招いて意見を聞く勉強会を主催し、その成果を1997年12月に『歴史教科書への疑問』(展転社)を発刊した。

    2004年9月厚生労働副大臣に就任。かねてから自治労傘下の労働組合の下で非効率で不正確な業務が行われていた社会保険庁改革に取り組み、社会保険庁解体の基本計画を策定する(社保庁解体は後に安倍晋三首相のもとで行われている)。その徹底ぶりは破壊者織田信長を自認する小泉純一郎首相をして「そんなことが本当にできるのか?」と言わしめたほどであったと言われている[要出典]

    しかし、2005年7月5日郵政国会では反対票を投じたため副大臣を罷免される。このため、2005年9月11日第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず無所属で大分1区から出馬し民主党の吉良州司に3927票の僅差で落選。

    2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で比例区からの立候補を希望し、自民党に公認を申請したことが引き金となって前年末に続く郵政造反組復党問題が起こる。党内では前年末の「造反組議員」復党で内閣の支持率が下がったことなどから根強い反対意見も有ったが、かつての盟友安倍晋三総裁(内閣総理大臣)が自民党の総裁推薦候補(自民党には比例代表選挙に際して総裁が自らの推薦候補を1名だけ指名できるならわしがある)を衛藤にすることに強い意志を表明した。自民党党紀委員会では賛成10票、反対7票という異例の多数決となったが、復党が実現して比例代表候補となった。

    しかし、大分で衛藤を支持していた層を比例区で取り込もうと考えている公明党から反発の声があがった。選挙区と比例代表のバーターによる自公協力を壊さないため、自民党本部は、復党にあたって、地元大分での選挙活動を認めないなどの厳しい制約をつけた。衛藤はそれに従って、大分ではなく福岡に選挙事務所を置こうとしたものの、それについても公明党から反発が出て、結局、東京渋谷に選挙事務所を置くことになった。地元の大分では、長年の支援者が大分での選挙活動を容認するように自民党本部に働きかけたものの、福岡での支援者の集会にも出席を差し止められるなど、自公協力が優先された。しかし、実際の選挙戦にあたっては県内各地で衛藤支持を訴えるポスターが掲示され、地元の実地レベルでの衛藤支持者が活発に運動するさまが見られた。

    一方、6月11日東京で開かれた「えとうせいいち君を激励する会」では、伊吹文明文科相や自民党中川秀直幹事長、中川昭一政調会長なども駆けつけ、それぞれ、「逆風の中の厳しい選挙だが、なんとしても衛藤氏を国会に復帰させていただきたい。」(伊吹文明・文科相)、「安倍総理が必要としている政治家、それが衛藤氏だ。」(中川秀直自民党幹事長)、「安倍総理と衛藤氏とは、教科書問題でともに活動してきた仲間同士、衛藤氏が国政に復帰すればこんなに心強いことはない」(中川昭一政調会長)などの支援を表明している。また、家族会の横田夫妻も駆けつけ「衛藤先生は、まるで自分ごとのように親身に、誠実に、拉致問題に取り組んでいただいてきた。皆で応援してください。」との熱烈なメッセージを送っている。他にも、福祉団体から多くの参加者が押し寄せ支持基盤の強さを印象付けた。

    また、ソプラノ歌手の森敬惠が衛藤晟一応援歌を作詞・作曲している。

    7月29日の投票の結果、自民党比例代表13位の得票を得て、国政への復帰を果たした。直後に古巣である伊吹派に復帰した。選挙後の内閣改造ではいわゆる「造反組」からも副大臣の起用が有ったが選に漏れ、自民党政調会厚生労働部会長に就任した。

    12月12日、参議院本会議において野党提出の郵政民営化凍結法案の採決では棄権した。そのため、自民党参議院議員会長である尾辻秀久から厳重注意処分を受けた。

    2008年4月14日、自民党大分県連により、県連復帰が承認された。これに対して、公明党大分県本部の竹中万寿夫代表が同日の自民党県連年次大会出席を急遽取り止めた。竹中は衛藤の県連復帰により、「自公の信頼関係が崩れ、今後の自公協力が厳しくなる」と述べた。

    現在、自民党障害者特別委員長を務めている。

    [編集] 政界入りまでの経緯

    1947年生まれ。父親が太平洋戦争での傷痍軍人であり、そのことが後に障害者自立支援及び歴史問題に取り組む原点となったと本人が語っている。また、高校一年生のとき、病弱であった母を亡くすが、その際に母親が死の病床より衛藤本人に言い遺した「何か人の役に立つことをやってもらいたい」の言葉が後に大学卒業後の障害者自立支援ボランティア活動及び政治の世界に身を投じる出発点となったとも語っている。また、多感な時期に母親を亡くしたことが、家族を大切にする政策を進める原点となったとも言われている。

    1970年 大分大学経済学部卒業。学生時代は、大学紛争を共産主義革命の起爆点にしようとする全学連をはじめとする左派学生に対し、教育の場としての大学を取り戻すべく別府大学井脇ノブ子らとともに大分大学学生協議会(分大学協)、全国学生自治体連絡協議会(全国学協)で民族派学生運動に従事する。結果として、大分大学は国立大学の中でも珍しく保守派が自治会の主導権を握る状態(保守派の立場から見れば「正常化」したという)となった。

    大学卒業後、障害者自立支援のボランティア活動に従事する。その際に、障害児を持つ母親の「実はこの子の障害が判った時、この子を殺して自分も死のうと何度考えたか判らない。しかし、今はこの子と共に生きようと決意して育ててきたが、この子が働く場所がない。自分たちがいなくなった後のことを考えると、この子を自立させ、将来ともに安心できる施設が欲しい」の言葉を聞き、「障害者とその家族が必要としているのは、お金をばらまくことではない。ハンディはあっても、残された能力を最大限に生かし、それを社会の中に生かす。障害者に社会の中で生きがいをもって働く場所を作ることこそ福祉ではないか。」と考え、政治の世界に身を投じる決意をする。

    [編集] 安倍晋三との関係

    1993年に衛藤が2回目の当選した時、安倍は初当選の新人議員だったが、二人は憲法改正や教育問題や歴史認識に関して政治理念が一致していたため、行動を共にすることが多かった。衛藤は安倍に「首相を目指すなら社会保障に精通すべきだ」と説き、安倍が厚生行政に携わるようになった。1999年、それまでポストに恵まれなかった安倍は小渕内閣の改造・党人事で党ポストの一つである社会部会長(現・厚生労働部会長)に抜擢されたが、この人事は政調副会長だった衛藤が自身の所属派閥領袖であった亀井静香政調会長に進言したことで実現した。

    2007年の衛藤の復党には以上のような経緯があり、安倍首相が衛藤を兄貴分として見ていたためである。

    [編集] エピソード

    1994年羽田内閣総辞職後の首班指名について、河野洋平総裁森喜朗幹事長日本社会党村山富市委員長を推したため、自民党両院議員総会は大いに紛糾した。しかし、旧大分県第1区[1]で村山と直接のライバル関係にあった衛藤が賛意を表明したことから、議論の流れが大きく変わり、村山首班指名で決着した[2]。こうして自社さ連立政権が成立し、自民党は11ヵ月ぶりの政権復帰を果たした。

    [編集] 宗教

    [編集] 脚注

    1. ^ 直近の第40回衆議院議員総選挙1993年)は中選挙区制であった。
    2. ^ 森喜朗・亀井静香 「対談 毅然と対決、死闘十一か月の攻防」『月刊自由民主』平成17年3月号、自由民主党、2005年。
    3. ^ 『崇教真光』誌平成18年12月号 P46-47

    [編集] 外部リンク

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